あらかわのエッセイ

三十代農民のつぶやき。

野菜について。

ものすごく漠然とした質問が届いた。しっぽさん、あなたですね。

 

植物は人が生まれる以前から存在していて、淘汰の末に残ったのが今見えているものなのだろう。それは生き物の食糧や棲み処、植物の肥料、酸素の生産など、多岐に渡って様々な事柄との因果が深い。

 

人類も植物を利用してきた。人間や家畜の食料、建築の材料、防風、防雪、防砂、景観の向上など、挙げればこれもまた多岐に渡る。人の手によって生産された植物を農作物というし、それを作る仕事を農業といい、作る人のことを生産者という。私のことだ。

 

生産者になって6年経った。ある程度のことはわかってきたつもりでいるし、実績もできてきたのではないかなと思う。しかしこの間でわかったことが「消費者の多くは野菜を通じて野菜作りや農業自体に関心はあるけれど、農業を日本の基幹産業として維持することまでは関心を示さない」ということである。

 

栽培技術というのは機械化やIT化される前に比べればはるかに向上している。肥料の質の向上、効果も安全性も高い農薬の開発、機械管理による効率化などから、反収(1反=1,000㎡当たりの収量)も上がり、天候や気候に左右されやすい産業ではあるけれどその振れ幅もかつてほど大きくはなくなった。ギャンブル農業の時代はもう終わっているのだ。それでもまだそう思っている人は少なくないし、農業は儲からないというイメージもある。

 

農業は栽培技術と農地と資材や機材があればコンスタントに収益を出せる産業だと思う。しかし作ったものをなんでもかんでもJAに出すやり方で実現は難しい。彼らは農家の味方を装った農家を搾取する存在でしかないのだ。どうするかというと売り方が要点になってくる。(この辺りの話は長くなるので割愛する。)

 

農業が産業として存続するためには、儲かる産業でなくてはならないし、それを実現するための手段とリソースを確立させなくてはならない。安部総理の改革の中にも農業について取り挙げられているが、新しい農業経営の考え方というのが今求められていると思う。農業はなくならないが既に現代社会において産業としては淘汰されている。日本の農作物のクオリティは高いがしかし、このままではいずれ否応なしに食料自給率は下がるだろうし、そうなれば今まで国産だったものさえ海外産に置き換わってしまうだろう。そうなれば日本人としてのレゾンデートルの危機とさえ、言えるのかもしれない。日本で作られた野菜を日本人が食べてくれてそれに見合った対価を支払ってくれる。野菜を通じて思うことは、いろんな選択肢がある中で国産のものを選んで消費してくれることは生産者冥利に尽きるということだ。そういった消費サイクルが農業を基幹産業として存続させるためにはなくてはならないとも思う。

タイムマシンは科学による幸福をもたらすか。

シュタインズゲートという数年前のアニメを時々見ている。偶然にもタイムマシンを作ってしまった主人公の研究チームが、身に降りかかる不幸を振り払うべく過去に戻ってその原因を摘むというような内容だ。

過去に嫌なことがなかった人はおそらくいないだろう。自分の選択の結果であれ、あるいはそうでない不可抗力であったとしても、だれもが自分にとって不利益になる嫌なことは選ばない。あの頃ああしていればよかった、この選択をとっていれば違った人生だったかもしれない。そんなことを一度は思うのではないだろうか。

タイムマシンがあって過去にあった間違いを修正できたら、今とは全く別の人生を、今より幸福な生涯を送ることができるのだろうか。仮にそうであったとして、きっとそれはもう同じ遺伝子を持った別の個体のような気がする。失敗も、挫折も、つらいことも、嫌なことを経験してきたことが自分のアイデンティティの一部なのかもしれない。そしてそれは経験値としてこれから活きてくるのだろう。

あまり自分を好きになれないという人はたくさんいる。そういった人は誤った選択の結果を受け入れられずにいるのかもしれない。でもそれは思い描いていた結果にならなかったとしても、それからの生き方につながるのではないだろうか。逆境を乗り越えられる人もいればそうでない人もいるが、それが自分のことだとしても、人のことだとしても、うまくいかないかったことを認めて受け入れられるような人になりたいなと思う。